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今週上映の『戦場でワルツを』『カティンの森』は、
それぞれの監督個人に深く根ざす“戦争”の爪痕、“記憶”が映画の核となっている。

『戦場でワルツを』は、監督であるアリ・フォルマンが、失った記憶を求める自分自身を被写体としたアニメーションによるドキュメンタリー。 『カティンの森』は、第二次世界大戦時下、ポーランド将校がソ連によって虐殺された“カティンの森”事件を克明に描き出す。 監督は、自身の父親もカティンの犠牲者であるポーランドの巨匠、アンジェイ・ワイダ。

両作品は共に、“事件”から長い歳月を経て完成に至った。 過酷な戦場での体験から、記憶を失い、忘れたいことを忘れることで自分の身を守ったアリ・フォルマン。 事件で父を亡くすという鮮烈な記憶を持ちながら、口をつぐむしかなかったアンジェイ・ワイダ。 ふたりの監督が何よりも危惧したのは、“真実”が埋もれ、“記憶”が風化し、“事件”が忘れ去られてしまうこと。 監督たちの“記憶”から喚起する戦争の生々しい傷跡は、 歳月を超えて私たちに迫る。


戦場でワルツを

背景:サブラ・シャティーラ大虐殺とは

<1982年6月>
イスラエル軍は南レバノンへ侵攻した。当時レバノンは国家として破綻状態にあり、PLO(パレスチナ解放機構)の基盤が拡大していた。この侵攻の真の意図は、親イスラエルのキリスト教系民兵勢力“ファランヘ党”の若手指導者バシール・ジュマイエルを大統領に据え、レバノンに政権を樹立することにあった。

<9月14日>
ファランヘ党本部が爆破され、指導者バシールが暗殺される。これが「サブラ・シャティーラ大虐殺」の引き金となる。ファランヘ党は即座にパレスチナ武装勢力の犯行と断定。偉大なるバシール暗殺への報復として大勢力で当時多くのパレスチナ難民が暮らしていたサブラ難民キャンプとシャティーラ難民キャンプへと進軍。虐殺が起きている間、イスラエル軍はキャンプの出入り口を固め、さらにキャンプ内が見えるビルの屋上に前線基地を設置していたという。

<9月18日>
キャンプ占拠から3日目の早朝、半狂乱の女性たちがキャンプ外へ出てきてようやく事態が明らかになる。3日間、ファランヘ党はキャンプ内の難民たちを大虐殺したのだ。正確な犠牲者の数は不明だが、3,000人を超えるともいわれる。

大虐殺のニュースは世界中に衝撃を与えた。「サブラ・シャティーラ」はパレスチナの人々にとって民族的な悲劇として強く記憶されており、イスラムの聖地であるエルサレムの岩のドームの近くにはこの事件について刻んだ小さな碑が設けられている。

(2008年 イスラエル 90分 ビスタ/SRD PG12
2010年7月31日から8月6日まで上映

■監督・脚本・製作 アリ・フォルマン
■アニメーション監督 ヨニ・グッドマン
■美術監督 デヴィッド・ポロンスキー
■音楽 マックス・リヒター

■声の出演  アリ・フォルマン

■全米批評家協会賞作品賞/LA批評家協会賞アニメーション賞/ゴールデン・グローブ外国語映画賞/ヨーロッパ映画賞音楽賞/放送映画批評家協会賞外国語映画賞/セザール賞外国映画賞

生きるために失くした記憶を、
生き続けるために取り戻す。

pic1982年、イスラエル軍によるレバノン侵攻。当時19歳だったアリ・フォルマンは、イスラエル兵士として従軍していた、はず…。けれども彼にはその記憶がすっぽりと抜け落ちている。

『戦場でワルツを』は、監督アリ・フォルマンの実体験を追ったノンフィクション。アリは、抜け落ちた記憶を探し求めるために、今は世界中に散らばった戦友たちを取材してまわる旅に出る。本作は、いわば“記憶を巡るロードムービー”。取材を重ね、戦友たちの記憶の窓から浮かび上がってきたのは“サブラ・シャティーラ大虐殺”と呼ばれた事件。遍歴の末、さかのぼった過去がアリに突き付けるものとは?

pic現在と過去、夢に幻想、フラッシュバックが入り混じり、様々なヴィジョンと時系列が交錯するアリの旅程。一人の人間の渾然とした心象は、アニメーションだからこそリアリティを獲得したと言っても過言ではない。

アリ・フォルマンは、本作を「美しい画のアニメーションを使ってでなければ作れない」と思い、イラストレーターの力を借りて記憶の旅を描くことを決意した。自らの脚本に従ってスタジオで実写撮影したビデオからストーリーボードを描き起こし、新たに2300枚のイラストを描いて、それをアニメーションに仕上げていくという斬新な方法で進められた。そして、銃撃戦とショパンのワルツというコントラストや、世界的な現代音楽作家、マックス・リヒター作曲の幻想を彩る静謐な弦楽曲などの音楽が、数々のシーンをより印象深いものにしている。


カティンの森

背景:カティンの森事件とは

<1939年8月23日>
ドイツとソ連は不可侵条約を結び、付属秘密議定書で東ヨーロッパにおける両国の勢力範囲を確定した。これは、38年のミュンヘン会談後孤立したソ連と、対ポーランド攻撃を容易にすることを目的としたドイツとの妥協の産物だった。

<9月1日>
ドイツがポーランド侵攻を開始。イギリス・フランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が勃発。

<9月17日>
ソ連が東からポーランドに攻め込む。

<1940年>
ソ連の捕虜になっていた約15,000人のポーランド人将校が行方不明になる。これはポーランド軍に属する将校の約半数にあたる。

<1941年6月>
ドイツが不可侵条約を破ってソ連に攻め込む。

<1943年4月>
一時的にナチスドイツによって占領されていたカティンでポーランド将校数千人の遺体を発見。「カティンの森」事件の名はここからつけられた。ドイツはソ連の仕業としたが、ソ連は否定し、ドイツによる犯罪とした。戦後、ソ連の衛星国となったポーランドでは、カティンについて語ることは厳しく禁じられていた。

<1989年秋>
ポーランドの雑誌が、虐殺はソ連軍によるものであると、その証拠を掲載。

<1990年>
ソ連政府は、ソ連の内務人民委員部(後のKGB)による犯罪であることを認め、その2年後、ロシアのエリツィン大統領は、スターリンが直接署名した命令書によって行われたことを公式に言明した。ソ連軍の捕虜となったポーランド人将校約15,000人は秘密裏に虐殺され、カティン(現ロシア西部)、ピャチハトキ(現ウクライナ北東部)、メドノエ(現ロシア西部)の3箇所に埋められていた。 その後、この事件について様々なことが明るみになっていくが、まだ多くの事実が確認されないままである。

(2007年 ポーランド 122分 シネスコ/SRD R15+
2010年7月31日から8月6日まで上映

■監督・脚本 アンジェイ・ワイダ
■脚本 ヴワディスワフ・パシコフスキ/プシェムィスワフ・ノヴァコフスキ
■原案 アンジェイ・ムラルチク『カティンの森』(集英社刊)
■撮影 パヴェル・エデルマン
■音楽 クシシュトフ・ペンデレツキ

■出演 マヤ・オスタシェフスカ/アルトゥル・ジミイェフスキ/マヤ・コモロフスカ/ ヴワディスワフ・コヴァルスキ /アンジェイ・ヒラ/ダヌタ・ステンカ/ヤン・エングレルト

■ヨーロッパ映画賞エクセレント賞(衣装デザインに対して)

巨匠アンジェイ・ワイダが生涯をかけた願い―ついに映像に刻まれた「カティンの森」

pic1939年、ポーランドは、東側からソ連に、西側からドイツに侵略された。ソ連とドイツ、両国の侵攻から逃げる人々は、ブク川の橋の上で出くわす。行き場をなくし逃げ惑う人々のなか、クラクフから夫のアンジェイ大尉を探しに来たアンナと娘のニカは、大将夫人ルジャと出会う。アンナとニカは川向うの野戦病院へ、大将夫人は逆にクラクフへと向かった…。

映画は、捕らえられた将校たちや、彼らの帰還を待つ家族たちなど、幾重にも語られる人々の運命を映し出す。その“運命”は実際に遺された日記や手紙から紡がれている。『カティンの森』は、そうした一人一人の記憶と記録から真実を語るのだ。

picポーランドに深い傷跡を残した“カティン”。アンジェイ・ワイダが事件の“真実”を知ったのは、監督デビュー間もない1950年代半ば。しかし戦後、ポーランドはソ連の衛星国となったことで、カティンについて描くことはおろか、語ることすら厳しく禁じられていた。事件から70年近くの歳月を経た今、ワイダが描いたカティンは、“永遠に引き離された家族の物語”。人々の運命が痛いほどの真実を映し出し、観客の心を大きく揺さぶる。

アンジェイ・ワイダは映画界に一大ムーヴメントを巻き起こしたポーランド派の旗手として、アンジェイ・ムンクやイェジー・カヴァレロヴィチといった監督たちとポーランド映画を牽引してきた。祖国ポーランドの歴史と共に歩んできたアンジェイ・ワイダが、81歳となって遂に撮り上げた最高傑作であり、集大成となる『カティンの森』。本作は、カティンの犠牲者であるアンジェイ・ワイダの父と、父の帰還を生涯に渡って待ち続けた母に捧げられている。

(ミスター)


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